2004年12月26日のスマトラ沖大地震による大津波により、タイでは大きな被害が発生しました。私たちは、そのとき大きな被害が出た地域の一つであるピピ島にいました。私たちはまったくの無事だったのですが、本当に幸運だったとしかいいようがありませんでした。

そのときの様子を旅行記にしてみましたが、「一瞬の判断によって助かった」のではなくて「単に運が良かった」だけです。なので旅行記をみても、どうすれば助かるかなどの情報は得られませんが、被災するとどのようになるかの一つの参考にはなるかもしれません。

ピピ島までの足取り

ユナイテッド航空のマイレージが貯まっていたため、4万マイルを使っていけるところということでプーケットに行くことにしました。ターゲットはトラフザメで、ピピ島でよく見られるということだったので、前半をピピ島で過ごし、後半はプーケットのリゾートで過ごすことにしました。年越しで宿を予約すると、タイのガラディナーで宿泊代が高くなるということで、12月25日~31日(帰国は1月1日)の日程で旅行を組みました。

※ピピ島(ピーピー島)は実際には2つの島で構成されていて、宿泊できるのはピピ・ドン島の方になります。

12月25日にTG643便でプーケットに到着、その日はパトンビーチにあるパトンリゾートに宿泊しました。ピピ島では、なるべく朝早くに行ってビーチで過ごそうと思い、朝一番の船のアオナンプリンセスを予約してありました。翌日26日のホテルのピックアップは朝7時で、8時頃に港に到着してすぐに乗船しました。地震が発生したのは8時頃(7:56)で、プーケットでは揺れを感じた人もいたみたいでしたが、私たちは移動中だったこともあってか、感じることができませんでした。船は8時少し過ぎた頃に出発しました。


ピピ島に到着、ホテルにチェックイン
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ピピアイランドカバナホテル前の風景(被災前)

アオナンプリンセス号は、予定時刻よりも10分ほど遅れて、朝10時頃にピピ島のトン・サイ湾にある桟橋に到着しました。私たちは、ピピアイランドカバナホテルを予約してあったので、そのままホテルに向かって歩きました。ホテルまでの道には、いろいろな店もあって後でいろいろと見に来る予定でした。ピピ島には日帰りの客もたくさん来ていて、多くの人はホテルの前を通り過ぎて、先の方まで歩いて行っていました。トン・サイ湾にはたくさんのロングテールボートが、ひしめくように停泊していました。

ホテルでチェックインをすると、部屋の掃除は午後1時にならないと終わらないが、すでに部屋に入れるとの説明でした。ホテルでとりあえず荷物を預けて、ロングビーチで遊ぶ予定だったのですが、それなら荷物を部屋に置いたほうが良いだろうと思い、まずは部屋に行くことにしました。部屋は最上階の3階です。いつも一番安いプランで宿泊しているので、低い階の部屋ばかりだったのですが、これはラッキーと二人で喜んでいました。セーフティボックスは部屋には無いという説明だったので、フロントのセーフティボックスにパスポートと現金を預けて部屋に向かいました。

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部屋からのロー・ダラム湾の眺め(被災前)

部屋に入ってみると、すごく良い眺めです。ピピアイランドカバナはロー・ダラム湾とトン・サイ湾の間に位置しているために、どの部屋からも海を眺められるようになっていました。部屋の雰囲気もとても良くて、これから素晴らしいリゾートが始まるんだと、とてもわくわくしていました。ロングビーチにすぐに行く予定だったのですが、せっかくだから昼食をメインストリートで食べてからに行くことにしました。それまではプールでのんびりすることにしたのですが、荷物の鍵をセーフティボックスに預けてしまったことに気づき、一度フロントに行ってボックスを開けてもらい鍵を持って部屋に戻りました。

津波が襲ってきた
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第一波の津波のきた瞬間。現地時間10

部屋に戻り、プールへ行く準備をしているときに、さっちゃんがふと窓の外を見ると、なにやら大きな波が来ていてロー・ダラム湾に停泊していた船が浜辺に打ち上げられそうになっていることに気づきました。これは10時30分頃のことでした。浜辺で休んでいた人らしき数人も逃げています。危ないなぁと思いつつ、なんでそんな大きな波が来ているのか、さっぱり不明でした。ひょっとして大きな豪華客船でも通過したのか、それとも海中で爆発でもあったのかと考えていました。

そんな呑気なことを考えていると、さらに大きな波がやってきてホテルの一階が完全に海に浸かってしまいました。部屋から見えていた小屋も潰れて流されています。何隻かの船はホテルにまで流されてしまっています。しばらくして水位が下がって、いったい何が起こったんだろうと思って外を見ていると、また波がやってきて再びホテルの一階が完全に海に浸かってしまいました。しかも、なかなか水位が下がりません。この頃になって、やっとこれはただ事ではないと気がつきました。そして水位が下がらない状態で、湾の反対側で反射してきた波が襲ってきました。救命胴衣がわりにBCを膨らましましたが、ここは最上階でさらに上に逃げることも出来ません。ホテルが崩れないように祈るばかりです。波はどんどん向かってきて、ついにはホテルの2階部分にぶつかりガラスの割れる音が聞こえてきましたが、3階までは波は到達しませんでした。

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流れ続ける濁流。一階は水没しています。

こんな巨大な波は地震以外では起きないように思えましたが、しかしながら揺れも感じていません。原因がわからない状態でしたが、仮に地震によるものとして、もしもこの波が本震の前の余震によるもので、さらに大きい本震が発生し、もっと大きい波が来たら助かりそうもありません。今すぐにでも山に逃げたかったのですが、その後も波が何度も来ていて、山に逃げている間に波が来ても助かりそうもありません。とにかく、大きな波が来ないように祈りながら、午後2時頃まで海の様子を見ていました。幸いにも、徐々に波は収まって、湾は静けさを取り戻しつつありました。湾には机や冷蔵庫など、ありとあらゆるものが壊され流されて、大量に水面に浮いていました。

※ 津波と高波の違いを、これまでよくわかっていませんでしたが、今回の体験ではっきりと実感することになりました。津波の場合、水位が上がったままの状態が暫く続くため、一度波をかぶって終わりというわけではなく、濁流が延々と流れ続けることになります。

避難
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テニスコート・小屋・バンガローなどすべて壊滅状態です

何がどうなっているのかを知りたかったのですが、停電しているのでテレビを見ることが出来ません。途中、水は使えますという連絡を、各部屋に伝えている人は居たのですが、スタッフかどうかもよくわかりません。電話でフロントに問い合わせようとも思いましたが、電話も当然ストップしています。津波から3時間半が経過して、部屋にいても、どうなっているのかさっぱりわからないし、ホテルに人がいる気配が無いので、外にでて様子を見ることにしました。3階の廊下は階段付近は血だらけで、怪我をした人を手当てしていたようですが、ほとんどの人はホテルから居なくなっています。2階に行ってみると、怪我をした人を運び出している家族とホテルのスタッフらしき人がいて、ホテルは危ないからすぐに避難するように言われました。様子を見るために外に出てきていたので、何の荷物も持ってきていません。しかしガスが漏れているから、火事になる可能性があるとのことで、部屋に戻ってはいけないとのことでした。ガスを吸わないように、口を布で押さえて逃げるようにとの説明です。しかたなく、ホテルのロビー前に行くことにしました。ホテルのロビーは跡形も無く破壊されていました。カウンタがあった場所は、後ろの壁ごとすべて流されてしまったようです。セーフティボックスの部屋だけが残っていました。ホテルの隣にあるオープンエアの2階建ての建物に、多くの人が避難しているようで、そちらの方が状況がわかりそうだったので、そちらに避難することにしました。

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打ち上げられたボート。テニスコートの壁も粉々です。
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ロビーは壁も机もすべてなくなっていました。
山への避難

避難場所にはたくさんの怪我をした人がいました。しばらくして救助のヘリコプターがやってきましたが、着陸する場所を探すのに苦労しているようでした。船で怪我をした人を運ぶことが出来るようになったらしく、次々と運ばれていきました。中には日本の人もいました。何も持たずに避難してきましたが、いつまで避難しなければならないかわからないから食料と水は部屋から持って来たいところです。ホテルはすぐ横だったので、避難用の荷物を取りに戻ることにしました。ガス漏れで危険と言われていたので、かなりの恐怖を感じながらでしたが、部屋に戻り荷物を片付けて、食料、水と衣類をもって避難所に戻りました。

避難所では怪我の手当てと、搬送が繰り返されていました。しばらくして、無線らしき物を持っていた、場を取り仕切っていた人が津波が来るからすぐに山に逃げるようにと叫びました。その場はパニックになり、いっせいに皆が山に向かって走りました。いったいどのくらいの波がいつ頃にくるのかも、さっぱりわかりませんでした。これまでも情報が不足していましたが、山に行ってしまったら本当に孤立しそうです。しかし、もし本当に非常に大きい波がきたら助かりません。とにかく全力で山に向かって走りました。道はなくて、がれきの中を怪我をしないように走りました。山には道がなく、かなりの急斜面でしたが、木をかき分けて登りました。どのくらい登れば良いのかさっぱりわかりませんでしたが、低いところで波につかまって後悔はしたくないということで、力の限りに登ることにしました。しかし道の無い急斜面を登るため、なかなかみんな登れません。すぐにつっかえてしまい、まだ山に登れないで居る人達は、はやく登るようにしきりに叫んでいました。急斜面で、休むところを探すのにも苦労しましたが、かなり高く上ったところに少し休めるぐらいの場所があったので、そこで待機することにしました。私たちは、おそらく一番高いところまで登ったのではないでしょうか?そこには20人ぐらいが避難してきていました。

下山

同じ場所に避難してきた欧米の家族の話では、津波の時にはダイビングをしていて異変には気づかず、戻ってきてみてびっくりしたとの事でした。走って汗だくになったので、汗を拭いて体が冷えないように上着を羽織ることにしました。衣類をもって避難してきてよかったと思いました。緊張しているのか、朝からあまり食べていないのですが、それほど空腹感は感じずにいました。ただ山の中ということで蚊が心配です。携帯用の虫除け器はあったのですが、虫除けスプレーを持ってこなかったのは失敗でした。それにしても山の中からは木が邪魔で下の方の様子がわかりません。本当に波が来たのかどうかも不明です。音だけは聞こえるのですが、波の音は聞こえてきません。ヘリコプターの音はしているので、救助活動は続行されているようです。また船の汽笛の音もときどき聞こえていて、ひょっとして島から船で避難している人もいるのかも知れません。どうしたのものかと思っていると、避難して来た中にタイの人々がいて、しかも携帯をもっているとのこと。バンコクの親と連絡をとったところ、もう津波は無いと気象庁が言っているとの事でした。そこで下山しようという話になったところで、一部の人々は100%の確証が無い限り降りることは出来ないといい始めました。といっても、こんなに情報が乏しい中では、100%の確証なぞ得られるわけもありません。結局は、少しずつ様子を見ながら降りることになりました。下のほうまで降りた頃には夕方になっていたのですが、ここで多くの人がまだ避難していました。そこで、一緒にとどまることにしたのですが、なにしろ道も無い山の中なので、傾斜がきついし狭いしでとても大変でした。すっかりと暗くなってきたところで、多くの人がロウソクや焚き火をしだしたのですが、こんな山の中で人々が密集しているなかで火事になったらと思うと余計に寝れなくなってしまいました。

船を求めて

すっかりと暗くなり、ここで夜を明かすのかと思っていると、桟橋に船がくるから下山して島から避難するようにという連絡が入りました。この夜は満月でライトがなくても歩けるのが幸いでした。ヘリコプターは何度もピピ島にやってきてはけが人を運んでいました。即席のヘリポートの周りには怪我をして横たわっている人がたくさんいました。桟橋まで歩いていくと、桟橋は津波で壊れていて大きな船が入ることが出来ない。別の場所に船が来るからということで、別の場所に歩いていくことになりました。しかし別の場所まで歩くといっても、道は陥没していたり、もしくは倒壊した建物でふさがれていたりして、そう簡単にあるいていくことができません。やっとの思いで到着すると、海面上には流された木材や家具などで一杯になっていて、とても船が近づけそうもありません。あるはずの桟橋もなく、沖合いに船がいるように思えません。やっぱり元の桟橋まで戻ってみると、先ほどまで先導していた人達がいません。誰もどうなっているのかさっぱり不明な状況で、とりあえず、一番最初の避難場所だった2階だての建物に戻ることになりました。しばらくそこで休んでいたのですが、蚊も多くてとても寝られるような状態ではありません。隣には自分達のホテルがあったので、ちょっと危険でしたが、部屋に戻ることにしました。人々の集まりから離れると情報が無い状態で孤立するのが心配だったのですが、どこにいてもまともな情報は得られるようにも思えません。ここはゆっくりと落ち着けることを重視することにしました。ライトを持っていなかったのですが、デジカメの液晶をライト代わりにして足元を照らして無事に部屋に着きました。実は前から、ホテルからはドアを壊すような音がたびたび聞こえていて、どうも部屋にある食料や水を確保しているようでした。自分達の部屋もすでに荒らされていたかなとは思っていたのですが、一番奥の方の部屋だったので、まだ大丈夫のようでした。少なくともこの状況で、ベットで寝られるのは非常に助かります。それでも夜中に何度もドアをノックする人達がいて、なかなかゆっくりは寝られませんでした。

翌朝

翌朝の12月27日は朝6時頃には目が覚めました。ピピアイランドカバナのテニスコートがあった場所が、ヘリポートになっていました。数台のヘリコプターがひっきりなしに飛んできてはけが人を運んでいますが、次から次へと新しいけが人が運ばれてきているために、なかなか終わりそうもありません。すでにちゃんとした医療スタッフがすでに到着しているようで、白衣を着た人がけが人の手当てをしていました。水や食料も次々と運ばれてきています。桟橋の方を見るとかなりの人が桟橋の上で船を待っているようです。私達は荷物も無事だったので、すぐにピピ島を離れる必要も無いかなということで、午前中はホテルで様子を伺うことにしました。ただパスポートなどの貴重品が、一階のセーフティボックスに置いてあったので、なんとか開けられないかと思い一階に行くことにしました。すでに数人がスタッフらしき人にセーフティボックスをこじ開けてもらっていました。私達もお願いして開けてもらうことが出来たため、これでパスポート、クレジットカードそして現金も無事に戻ってきました。この状況で、すべての荷物が無事だったというのは奇跡的に運が良かったと言えるでしょう。部屋に戻って外を見ていると、ヘリコプターから食料が届いているようです。どうもお弁当のようなものも届いているようで、もらいに行くことにしました。昨日の昼からほとんどちゃんとした食事をとっていないので、お弁当がもらえたら助かります。しかしながら、すぐに無くなってしまったようで、ビスケットしかもらうことは出来ませんでした。ホテルに戻ろうとすると、危険だから立ち入ってはいけないとの事。なんとか懇願して部屋に戻りましたが、これ以上部屋にいるのは難しそうです。もらってきたビスケットを食べて荷物をまとめて、とりあえずホテルのロビー前に行くことにしました。

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ヘリコプタを待つ負傷した人々。
まだ続々と運ばれていました。
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複数のヘリコプターが何度も往復していました。
桟橋へ

ホテルのロビー前に出てみると、まだ昨日避難した二階の建物には、まだかなりの人がいるようでした。ここで久々に日本の人と会うことが出来ました。ホテルの二階の部屋だったらしいのですが、津波が来たときに急いで3階に逃げたのこと。一瞬の判断で怪我を免れたそうです。今朝の情報では、ホテル前のビーチに11時に船がくるという噂だったのですが、あまり当てになりそうもありません。ロビー前で桟橋に行けば船に乗れるという話を聞き、桟橋に向かうことにしました。ダイビング器材入りの荷物は一つ当たり25kg以上あって運ぶのは大変だったのですが、通りがかった人が皆助けてくれました。この状況のなかで、なかなか皆親切です。

桟橋にはすでにたくさんの人が船を待っていて、さらに2台の船がすでに人を乗せているところでした。船にかかる橋が一つしかないので、なかなか時間がかかっているようです。皆、とにかく早く乗りたいということで、押し合いになっていました。私達は荷物を持っていたのですが、荷物を持っていない数人から非難されました。実際、荷物を持っている人は少数でした。といっても、せっかくの無事だった器材入りのバックを置いていくわけにも行きません。それでも、桟橋ではビスケットを分けたりと助け合いもされていました。

それにしても、そんな丈夫そうに見えない桟橋にぎゅうぎゅう詰めに人が乗って耐えられるのでしょうか?皆もかなり気になっているみたいで、それぞれに”桟橋が壊れるからそんなに乗るな”と叫んでいました。かなり過激に叫んだ人がいるらしく、一度だけ桟橋が崩れるという誤解が広まって、いっせいに走って逃げる一幕もありました。みんなかなりナーバスになっていたのでしょう。桟橋は、最初右側にプーケット行きの船、左側にクラビ行きの船がとまっていたため、皆そのように並んでいたのですが、次のクラビ行きが右側に停泊したために、左側にいた人が、いっせいに右側に移って、すごい押し合いになりました。このあたり統率を取る人がいればよかったのでしょうけど、そういう人もいないうえに、皆がそれぞれに叫ぶためにごちゃごちゃになっていました。

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桟橋近くのセブンイレブンは柱しか残っていません。
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メインストリートの店も崩れてしまっています
ピピ島脱出

私達は右側に並んで、次の船ではほぼ先頭に乗れる状態だったのですが、その後2隻のクラビ行きが右側に停泊してしまったために、さらに待つことになりました。プーケット行きが数隻左側に停泊したのですが、とても荷物を持って移動できるような状況ではありませんでした。ピピ島では、プーケットが大丈夫なのかどうかまったく不明で、プーケットに戻ってもどうにもならないかも?という気もしていたのですが、船が出ているくらいだから大丈夫なのだろうということと、旅行の予定では後半はプーケットにいることになっていたので、やはりプーケットに向かうことにしました。桟橋はほとんどの部分に屋根がなく、暑い中立って船を待たなければなりません。多くの人が押し合いぎゅうぎゅうずめで待っています。こんな中で子供達はすっかりぐったりとしてしまっているようで、途中スピードボートに優先して載せてもらっていることもありました。桟橋には定期船と思われる大きな船が来ては人々を運んでいたのですが、その他にも小さなスピードポートなども来ていて、特定の人達だけを運んでいるようでした。どのようにして呼んだのかはわからないのですが、ピピ島にいた人でも、連絡の手段があった人は、そのようなことができたのかもしれません。桟橋に並び始めて2時間半後に、やっと警察(もしくは軍?)の小型船に乗ることが出来て、ピピ島を脱出することができました。

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桟橋で船を待つ人々
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ピピアイランドカバナホテル前の風景(被災後)
プーケット島に到着

船は約1時間後にプーケット島に到着しました。警察(もしくは軍?)の船だったこともあってか、警察(もしくは軍?)の桟橋に到着したようでした。大きな定期船に乗った人は別の場所に行っていたようです。ここでは、お弁当とお水が提供されるなど、親切なもてなしを受けました。電話を借りたかったのですが、英語も通じず連絡をとることができませんでした。海外の人の中には携帯を持っている人がいて、連絡を取っている人たちもいました。いざというときには、海外で使える携帯は重要だと思いました。しばらく休んだあとにプーケットタウンにあるシティホールに全員がバスで送られました。プーケットタウンは津波の被害を受けていないらしく、全く通常の生活のままでした。災害の起きた場所と起きなかった場所の差というのは、本当に大きいものなんだなぁと思いました。

シティホールにて

シティーホールの前で全員が降ろされたのはいいのですが、降ろしただけでそのままバスは行ってしまい、どうしたらいいのかさっぱりわかりません。建物の前の広い敷地にはたくさんのテントが設営されています。端の方の広場には、被災したと思われる人達が休んでいます。これはここで野宿することになるのかなと思いつつ、とりあえず建物のほうに行ってみることにしました。飲み物を無料で提供しているところもありました。建物付近は人々でごった返していましたが、国内通話なら無料でできる場所が用意されていたため、まずは宿の手配をすることにしました。私たちはパスポート・現金を含め荷物は無事だったため、すぐに日本に帰る必要はなさそうです。今回の旅行の後半は、カロンビーチにあるホテルを予約してあったので、そこに泊まれるのなら予定通りの飛行機に乗ったほうが良さそうです。ただ後半のホテルまではあと2日分の宿を確保する必要があります。とりあえず、ピピ島のホテルの予約につかったところに電話してみました。しかしながら、バンコクにオフィスがあるようで、プーケットの状態はほとんど把握できていないようでホテルの予約は無理でした。次に後半に泊まる予定のホテルに電話して、現在の状況と前倒しで今日から泊まれるか聞くことにしました。日本人スタッフがいることになっていたのですが、その場にいないらしく英語でのやりとりとなりました。どうやらホテルは大丈夫そうなのですが、ちゃんと予約がはいっているかの確認をしているうちに電話が切れてしまいました。なかなか混乱しているようです。タイの旅行会社の情報もなく、ひょっとしたら日本大使館の臨時オフィスがあるかもと思い探すことにしました。さて、どこにあるのかと思って立ち止まっていると、ボランティアの人が私は日本語がしゃべれるので何かできることがあったら言ってくださいと話かけてきてくれました。そこで日本大使館のオフィスがあれば連れて行ってほしいとお願いすると、案内してくれることになりました。結局は日本大使館のオフィスは見つからず、別のホテルなどの手配をしてくれている建物に案内してくれました。シティホールにはパスポートがなければバンコクまでの無料航空券の手配と、パスポートの再発行をおこなう場所がありました。それではバンコクから自分の国まではどうやって帰ればいいのか訪ねている人がいましたが、それはセンターではわからないようでした。ちなみに日本の旅行会社ではHISのオフィスがありました。JTBはサポートが充実していると言われていますが、HISもかなり信頼できるようですね。個人手配の旅行だと、いざというときにサポートが受けられないのがつらいところだなぁと思いました。こういうときに日本大使館を頼れるのかと思っていましたが、全然だめみたいですね。当初、プーケットタウン内のホテルは、昨日や今日の午前に避難してきた人達で、すべて満室と言われていたのですが、実際に宿を手配しているところを訪ねてみるとプーケットタウンで宿を手配することができると言われました。ホテルまではボランティアの車で送ってもらうことができました。本当ならシティホールでいろいろと情報を集めたかったのですが、なにしろ人々でごった返していたし、ボランティアの人々も多忙を極めていたので、ちょっと難しかったですね。一緒に乗った家族は、母と娘2名でところどころに怪我をしていました。話を聞くとカオラックで津波に会い、父親は市内の病院に運ばれているとのことでした。ホテルに行ってみると、すでに部屋が確保されているわけではありませんでしたが、空きがあるということで部屋に入ることができました。

それにしても、シティホールではタイのボランティアの方々にずいぶんと助けてもらいました。災害2日目で、すでにサポートする体制ができていて、たくさんのボランティアの人達が集まっていたのを見て、タイに対する認識が改められた気がします。現場では、すごく慌しくて十分にお礼を言う事ができませんでしたが、また別の形で恩返しができればと思っています。

その後

2日間は、プーケットタウンで過ごし、後半はカロンビーチにあらかじめ予約してあったヒルトンに宿泊しました。その後は当初の予定どおりの旅行となりました。

親にはプーケットの旅行について話をしていなかったので、連絡するとかえって心配すると思い、電話をするのはやめておきました。プーケットタウンのホテルではタイ語の新聞とテレビしかなく、全体的な情報が得られなかったので、インタネットを使えるところに行っていくつかのサイトで情報を集めました。このときに初めて、今回の津波がタイだけでなくインド洋全体のものだったことを知りました。私たちのメールにいくつかの安否確認のメールがあったので無事を伝えて、あとはこのHPの掲示板に書き込みをしておきました。メールには親からの安否確認のメールは無かったので、このまま知らせないで置くことにしました。

実は、このころには会社と実家で大騒ぎになっていたようです。職場ではプライベートな話を上司にすることもなく、2日ほど有給休暇をとって旅行に来ていることもあって、仕事をしている他の人達に遊びの話を大々的に話せるわけはありません。一部の友人だけが知っていたのですが、情報というのは伝わるときには一気に広まるらしく、会社の上層部の方々までに知れ渡ることになってしまいました。最終的には、このHPの掲示板と安否確認のメールを受け取った方々からの情報で無事が確認されたようです。ただ日本に帰ってから会って話を聞くと、私たちは船に乗っていたから大丈夫だったとか、まだ飛行機に乗っていたから大丈夫だったというように思っていた人が多かったようです。情報は伝わるときには、誤ったまま伝わるものですね。災害が起こったときには、安否情報をしっかりと伝えておくことは重要のようです。

今回の災害からの避難の途中で名前等を聞かれることはありませんでした。安否の確認はどうやっているのだろうと思いましたが、結局は自分から連絡しない限り伝わることはないようですね。日本での行方不明者のリストに載っていたら連絡しないといけないと思い、インターネットにアクセスしたときに調べてみたのですが、ツアーによる日本人の安否情報のリンクしかなく、ツアーを使わない限り行方不明者にもカウントされないんだなと思いました。親は外務省に電話したみたいですが、”情報が無い”という答えしか返ってこなかったようです。

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